文・冨田貴史
絵・Karri Tree Design
構成・三宅洋平
【年間300回を超えるワークショップにて、味噌作りや塩炊き、地球暦や草木染めを全国に伝導している冨田貴史。連載6回目にしてついに、味噌作りの伝授にはいりました。冨田氏らしく前章は焦らすように知識編です。「手前みそ」のつくり方、始めましょう。簡単!】
みその歴史
味噌の原型は、紀元前700年頃に中国で作られていた発酵食品「醤(じゃん)」であると言われており、この醤は朝鮮半島を経由して7世紀頃に日本列島に渡来してきました。
醤は日本で独自の工夫を重ねられ、「未醤(みしょう)」と名づけられたオリジナルの発酵食品が生まれました。「未醤」の名は701年の大宝律令に記されており、この「未醤」がその後「味噌」に転じて日本における味噌文化が始まったと言われています。
まず公家や貴族の生活の中に取り入れられた味噌は鎌倉時代前後から民間に広まり「ご飯と味噌汁と漬物」といった、今でいうところの「一汁一菜」的なスタンダートな日本食の形ができあがっていきました。
大豆と糀と塩を合わせて仕込む味噌には、米糀を使った米味噌、麦糀を使った麦味噌、大豆糀を使った豆味噌などがあり、九州や四国、瀬戸内のような温暖な地域では麦味噌、東北や北陸、関東のような寒い地域では塩分多めの米味噌、中部や近畿地方では糀多めの米味噌、愛知や三重や岐阜など東海地方の一部では豆味噌、といった形で独自の味噌文化が日本列島中に広がって行きました。
それぞれの農家が育てた大豆や米や麦は糀屋に持ち込まれ、出来上がった糀を使って家族ぐるみ、地域ぐるみで味噌作りが行われ、その味噌は味噌蔵に保管されて熟成され、それぞれの食卓で愛用されてきました。
生活に必要な衣食住を自給する事を辞めてお金で買うばかりになってしまった現代においては、味噌もスーパーマーケットやコンビニで購入することが一般的になり、糀屋の数は激減してしまいました。それに伴って味噌の品質そのものも市場原理に合わせられ、なるべく短期間で大量の味噌を仕込むために人工的な発酵促進剤が使用されたり、コストダウンのために化学精製塩、農薬や化学肥料を使った大豆が使用されるものがほとんどとなり、本来の味噌の風味や効能を実感する事が難しくなってしまっています。
東京町田・井上糀店との出会い
江戸時代から続く東京都町田の「井上糀店」スタッフの碇さんは「味噌は本来買うものではなく作るもの。預かった米や麦に糀を付け、味噌の仕込み方のアドバイスをするのが糀屋の本来の役割であり、それでも自給しきれない分をまかなうために味噌の販売をしています」と語っています。
また碇さんは「味噌はカビが生えてはいけないもの」「味噌は冬にしか仕込んではいけない」という誤解が生まれ「味噌づくりは難しい」という雰囲気が広がっている状況を踏まえて「基本を押さえれば味噌作りに失敗はありません。味噌には優劣ではなく個性があるだけです」と語りかけながら各地に出向いて味噌作りの体験会を開いています。
2009年に出会った彼からの影響を受け、僕もその後、味噌作りの基本を学び、自分の工房や疎開保養キャンプの現場、全国各地のキッチンや公民館やお寺などで味噌作りの体験会を開いています。誰か一人が事前の仕込みをしておけば、ほんの数時間の共同作業で味噌は作れます。手作りの天然醸造の味噌を生活の中に取り入れるライフスタイルは今すぐにでも可能ですし、私たちの健康を支える養生食である味噌を作れる関係性を育みながら、味噌蔵や糀屋を復活させていくことは、命のためのコミュニティバンクを作っていくような意味があるように思います。
次回は、古来から続く味噌の伝統に感謝と敬意をはらい、新しい味噌文化づくりが生まれ育っていくことを願いつつ、井上糀店碇さんから学びながら工房などで研究を続けている味噌作りの簡単な流れを紹介したいと思います。
次回 第7回は、「味噌のつくり方(レシピ公開)」を予定しております。
*二十四節気ごと、およそ15日に1度の連載となります。
■冨田貴史 http://takafumitomita.blogspot.jp/
京都在住。ソニーミュージック~専門学校講師を経て、全国各地で年間300本以上のイベント・ワークショップを続けている。ワークショップのテーマは暦、エネルギー、手仕事(茜染め、麻褌、鉄火味噌など)自家発電など。大阪中津にて養生のための衣食を自給する冨貴工房を営む。また、疎開保養「海旅キャンプ」主催団体「21st century ship 海旅団」代表代行。『原発事故子ども・被災者支援法』を活かす市民ネット代表。
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