文・冨田貴史
絵・Karri Tree Design
構成・三宅洋平
「なぜ、精製塩(食卓塩)ではなく、天然塩を摂る必要があるのか?」
「なぜ、塩の自給は自然なライフスタイルを取り戻すシンボルなのか?」
日本産海塩は「釜焚き」がベース
現在の海水の塩分濃度は3.4%ほどで、この中にカルシウム(淡いえぐ味)、ナトリウム(塩から味)、カリウム(酸味)、マグネシウム(苦味)などが含まれています。この海水を天日にあてたり釜で焚く事で水分を蒸発させて塩分濃度を上げていくと、塩分濃度15%ほどでカルシウム分が結晶化し、濃度25%ほどになるとナトリウム分、30%を越えるとカリウム分、マグネシウム分(ニガリ成分)が結晶化します。海水に天日を当てて塩分濃度を上げてから釜で焚いたものが「釜焚海塩」で、最後まで天日の力で結晶化させたものが「天日塩」になります。なお、日本列島のような湿気が多い気候条件の中ではすべての工程を天日干しに頼ることは難しく、多くの日本産海塩は釜焚海塩になっています。
現在の福島県会津地方を例に取ると、江戸時代には同じ福島県の東側の海沿い、相馬や会津の海で作られて運ばれてきた「東入り塩」と、瀬戸内海で作られた塩が北前船で新潟湊に運ばれ、そこから津川を遡上して運ばれてきた「西入り塩」と、江戸川→利根川→渡良瀬川 →巴波川を辿って運ばれてきた「江戸塩」、さらに現在の南会津郡只見町塩沢にあった塩井戸(海水が湧く井戸)から汲んだ塩水を焚いて作る手前塩が存在していました。いくつもの山に囲まれた会津地方に運ばれてきた塩は、海岸部の暮らしでは自給できない山ならではの特産品や漬物、味噌、醤油といった塩を使った保存の効く発酵食品などと交換されており、あらゆる人にとって必要な塩が海の民と山の民の暮らしをつなぐ重要な媒介物になっていました。
1971年、日本の塩田が全廃
しかしそんな日本列島において、第二次世界大戦後に大きな変化が起こりました。1950年代にGHQの方針によって「反共の砦(反共産主義の砦)」と位置づけられた日本列島の至るところに、朝鮮戦争のための軍事物資(兵器、重機、船や飛行機、軍人軍属の生活必需品全般)を生産する大規模工場が立ち並び「朝鮮特需」という好景気を迎えました。その後、冷戦が苛烈になるにつれ日本の工業化は加速し、高度経済成長を推し進めるにあたって太平洋ベルト地帯の開発によって 1971 年に日本の塩田が全廃されました。
そしてこの時から塩の製造方法は「イオン交換式製塩法」に切り替わりました。「イオン交換式製塩法」とは、電力とイオン交換膜を用いて海水を濃縮し、立釜 (真空蒸発釜)で煮詰める方法で、このように作られた塩が「精製塩」です。この精製塩は、全体の99%以上が塩化ナトリウム(NaCl)の化学塩です。専売法が制定される頃、自然食愛好者、消費者グループ、学者たちによって反対運動が起こり、5万人の署名による請願書を政府に提出しましたが、この請願は棄却されました。その後も自然塩の復活を求める運動は受け継がれていき、1976 年に「日本食用塩研究会」が発足し、1997年に「塩専売法」が廃止され、 2003年に「塩専売制」が完全撤廃されました。
塩をセレクトすることの意味
ひとえに「塩」と言っても種類は様々であり、その歴史も様々です。日本列島における塩の歴史を振り返ってみても、私達の暮らし方や政治や経済との関わり方が、塩のあり方と密接に結びついていた事が見て取れます。どんな塩を選ぶかは人それぞれ好みもあるでしょう。塩のパッケージを見れば、製法によって選ぶことも出来るでしょう。成分でいえば「カリウム」や「マグネシウム」が含まれていないものが精製塩ですから、これも選択の基準になります。そしてさらに、どんな人がどんな価値観で作っている塩なのかに思いをはせたり、どのような塩を選びどのように活用していくかを工夫することが、社会や文化を作ることに貢献しているということを想像してみることもできるでしょう。
塩の道は、私たちが塩と関わるかぎり続くもの。
古代から続く塩の道をどこに向かわせるかも私達次第ということですね。
■冨田貴史 http://takafumitomita.blogspot.jp/
京都在住。ソニーミュージック~専門学校講師を経て、全国各地で年間300本以上のイベント・ワークショップを続けている。ワークショップのテーマは暦、エネルギー、手仕事(茜染め、麻褌、鉄火味噌など)自家発電など。大阪中津にて養生のための衣食を自給する冨貴工房を営む。また、疎開保養「海旅キャンプ」主催団体「21st century ship 海旅団」代表代行。『原発事故子ども・被災者支援法』を活かす市民ネット代表。
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