先月、お隣の建部町で「Okayama村づくり超会議×SAIHATE」というイベントがあり、参加して来ました。
SAIHATEとはご存知の方も多いかと思いますが、熊本にある「衣食住+文化循環型のエコビレッジ」、三角エコビレッジサイハテのこと。コミュニティマネージャーである坂井勇貴氏による、SAIHATE村での体験談などを交えたトークセッションでした。
当日まで3日という緊急告知の中、歩いてこれるご近所さんから、遠くは大阪や広島からの参加者まで、「村づくり」に熱い思いを抱く50名近い方々が集いましたよ。
地元ネイティブの方ももちろんいらっしゃいましたが多くは移住された方々で、実際に「世代の壁で行き詰まっている」と話す方が幾人かいらっしゃったり。少しでもヒントとなるキーワードを得ようと、真剣そのものです。
SAIHATE村に学ぶ
そもそもこのSAIHATE村、「ルールもリーダーも無い、お好きにどうぞで始まる村づくり」という驚きのコンセプトを採用している、非常に珍しいコミュニティ。
「お好きにどうぞ」ってことは、何でもありなのか?!!!
って思ってしまいがちですが、以前 スタッフまゆみが記したブログ「お金ってなんだろう。」での「ドネーションや投げ銭、ハートマネー は “タダでいいんだ ” ではない!」ってのと同じように、「お好きに」は「お好きに」だけど、「お好きに」だけじゃない!っていう、自分の行動に対して大きな責任を持たせる言葉なのです。
好きなことをする自由とは、その行為の結果について「どんな未来を引き起こすことになるのか?」を深く考えること。そして、その行為に関わるみんなとのバランスを意識したコミュニケーションを促すものになるのです。
<三角エコビレッジサイハテHPより>
本当の意味での「自由を得る」とは、自由に発想した自分の好きなやりたいことを行動に移すだけでなく、「その行為の結果についてもすべて受け入れる」ということが前提にあるのですよね。
やりたい放題やる!でも、やりっぱで後は知らん!って人が多い中、やりたい放題やる!でも、その結果で起こったことは全て受け入れ、自分のお尻は自分で拭く!っていう「大人な考え方」な人たちでないと、とてもじゃないけど大変なことになってしまうってことは、想像に難しくないところです。
ルールもリーダーも無く、「お好きにどうぞ」なんて言えちゃうSAIHATE村、マジすごいぞ! なのです。
ちなみに、SAIHATE村コミュニティマネージャーである坂井勇貴氏を中心に、NCU−次世代型コミュニティ大学なる面白そうなものが発動されたもよう。
次世代型コミュニティ大学とは、情熱や志を持った仲間が運営メソッドやアイデアを学べるオンラインコミュニティ。
真の豊かさは「自分らしさと居心地の良いコミュニティ」にある。
いつの時代も人類が求めるものに変わりはない。
あらゆる制限から解放され、自由と調和を手にするために必要なのは、自分を表現する力と相手を理解する力。そして、コミュニティを熟成・発酵する力。
それを学ぶキャンパスを僕らは、次世代型コミュニティ大学と呼ぶ。
なんだそうです。
興味のある方は、↓ こちらをどうぞ
SAIHATE村について詳しく知りたい方は、以下へアクセス!
それは、あれだ!「場づくり」だ!
SAIHATE村の「ルールもリーダーも無い、お好きにどうぞで始まる村づくり」が成立していける背景には、村内の「場作りが、いい感じに成されている」というところにあるのではないでしょうか。
「Shine研修3日目「味噌は自分で作るもんだ」の味噌づくりだけじゃない味噌づくり」のブログにも書きましたが、「場」っていうのは、「自分ごと」として物事に取り組んでいける人達によるチームみたいなもの。村民一人一人が「SAIHATE村を作っているんだ!」という自覚と共に在ることは、すなわちチームSAIHATE村の「場」を作っているということ。
一人一人がある意味リーダーであり、一人一人がある意味構成員なわけで、ルールやリーダーがいなくても「自分ごと」の感覚が物事をうまく回して行くってことだと思うのです。
これ、こんな「場」がSAIHATE村以外にもあちこちに存在していたら、世の中すごいことになりそうだと思いませんか?
一人一人が村を創っていくことを、地域を創っていくことを、そして世界を創っていくことを「自分ごと」として自覚し実践して行く「場」があちこちに存在していたら、それこそ日頃アレヤコレヤ言っている資本主義システムからの脱却を可能とし、自分達の思い描いた世界を創っていくことは容易となるでしょう。
ダイレクトデモクラシーへのシフト
話がちょっと逸れますが、「場づくり」の話のついでに、私たちのコンセプトを発表します!
まぁ、発表というほどのことではなく、今まで言葉にしてはいたのだけどなんとなくごちゃごちゃしてわかりにくかったことを、サトケン設立が正式発表になったこの機に、明記、表明するって感じですかね。
我らが店主、三宅洋平は以前から声を大にして訴えておりましたが、三宅洋平(を代表する、三宅グループ)は「生活=政治」ということを実践すべく、それぞれの分野をデザインしています。
つまり、どうゆうことかと言うと、SPEND SHIFT(消費者が変われば企業が変わる。企業が変われば政治が変わる。消費動向は、世界を変える。:三宅商店)、SLOW DOWN(心にゆとりのある、クリエイティブな時間の使い方へ。マクロなイデオロギーに偏りがちな政治の本質を、ミクロなコミュニティの実践へ。:里山経済・環境研究所)、SPEAK OUT(自分らしくいられる社会、多様性を認め合えることのできる社会への誘い。あなたの心に直接アクセスする発信。:レーベル / 犬式)の3つの分野での「S」を旗印に、「生活=政治」を実践し、より多くの生活者でダイレクトデモクラシーを実現することを目指しているのです。
場づくりを世の中に広げていくサトケン、場づくりのきっかけになるような商品を取り扱う商店、場づくりへの誘いを歌に乗せてお届けする犬式って感じでしょうか。
ダイレクトデモクラシーについては、店主のブログにも取り上げられています。
また、2018年1月5日発行の三宅洋平マガジン「感覚と科学」14号で、イタリアのリカルド・フラカーロ下院議員と「間接民主制から直接民主制へのシフト」のテーマにて対談しておりますので、またお読みでない方はチェケラッチョ!
大切なのは「寄り添うこと」
村づくりでも、場づくりでも、二人以上の人が集まると、人間の関係性が表立ってくるワケで......。そう、そこ大事!な、ところですよね。
先日ネットで、三大宗教について講義(?)されている方の動画を見たのですが、その中で「そもそもの問題は、 “自分が感じたり考えたりしていることを、相手も同じように感じたり考えていると思っている” ことにある」てなことをおっしゃっていて、ほんに「まさしく!!」って感じでした。
そうなんです。生まれも育ちも異なる環境の私たちが、必ずしも同じ価値観とは限らない。というか、生まれも育ちも同じ兄弟姉妹でさえ、価値観が違ったりすることもありますよね。
つまり、私の常識=あなたの常識ではないわけです。
ほとんどの人が相手に対して初めから敵意を持っている訳ではなく、みんな「仲良く付き合いたい」と思っているハズなのに、どこでボタンを掛け違えたのか、なぜだかすれ違ってしまってうまくいかない。
そんな時は、NVC「人と人との関係にいのちを吹き込む法」がおすすめです。
※「第11章 紛争を解決する」が追加され、よりビジネス現場のニーズにも応える内容となりました!
この本は、コミュニケーションがなぜうまくいかないのか?を様々な例を挙げて、うまくいくための物の見方や受け止め方、その方法などが書かれています。
「いい」とか「悪い」とかではなく、その言葉はどのような感情からきているのか?を知ることによって、ごちゃごちゃで一緒くたになった事柄を紐解いて、「今起こっていること」を理解することが容易になります。
「今起こっていること」が理解できたらどういいの、って?
それは、アレです。「いい」とか「悪い」とか、そういった価値判断から外れて、「感情」と「思い」を区別したところから言葉を出した方が、相手に伝わりやすかったりするのですよね。
感情を人にぶつけてしまうから話がこじれるのですが、感情は相手に「ぶつける」以外の方法で、ちゃんと表現した方がいいのです。なぜなら、自分が必要とすることを表現すれば、それが満たされるチャンスに恵まれる可能性が高くなるから。
「あなたには私のことは決して理解できない」と誰かがいえば、それは理解されたいと言うニーズが満たされていないという訴えなのだ。妻が「今週、あなたは毎晩遅くまで働いていた。私よりも仕事のほうを愛しているのね。」といえば、親密であることを必要としているのにそれが満たされていないという訴えなのだ。
NVC「人と人との関係にいのちを吹き込む法」より
「私と仕事、どっちが大切なの?!」なんて台詞は昔からよく聞くところですが、そんなこと言われた方は「非難された」と感じて守りに入るか逆襲するか。「家族のために働いてるのに、その言い草はなんだよ!」なんて、大喧嘩に発展しそうなニオイがプンプンしてきてしまうのですね。
遠回しな言い方をやめ、もっと直線的に自分のニーズを伝える。例えば、「今週、あなたは毎晩遅くまで働いていた。私よりも仕事のほうを愛しているのね。」→「あなたも毎日遅くまでお仕事で大変だろうけど、ほとんど話もできなくてさびしいわ。もっとあなたと一緒に居たいのに。」など。
嫌味な言い方をしても物事が良い方へ進むことは皆無なので、チクっと言ってやりたい気持ちはちょっと横に置いて、相手の心に寄り添った言い方で素直に自分の中にあるニーズを伝えると、「俺もそうだよ。」となる確率が高くなると思いませんか?
もちろんどうにもならない状況もあるので、言い方を変えたところで自分のニーズが満たされるかどうかはわかりませんが、少なくとも喧嘩にはならないだろうし、「私と仕事、どっちが大切なの?!」なんて言われるよりは、ちょっとでも一緒にいる時間を作ろうとしてくれる可能性が高まるかも。
「一人ひとりが『ほしい未来』をつくる、持続可能な社会」をめざす非営利のメディア、ウェブマガジンgreenz.jpの7/23号では、NVCを取り上げた記事が掲載されていました。
「あの人と仲よくなりたい」「仕事仲間といい関係を育みたい」「もっと家族とつながりたい」はたして、これらの思いを抱いたことがない人は、この世に存在するのでしょうか?
そう尋ねたくなるほど、私たちの悩みや希望の多くは、誰かとの関係による不満ではないかと思うのです。グリーンズだって、例外ではありません。これまでに、チームの関係がうまくいかなくなった時期が何度かありました。途方に暮れていたと編集長の鈴木菜央はかつてを振り返ります。
菜央:お互いにリスペクトがあってもこんなに悪くなるんだ、みたいな。
大切な関係性が不調に陥ったとき、切れかかった結び目を結いなおす確実な方法があるとしたら、きっと誰もが手に入れたいと思うのでしょう。
そんな魔法の杖はどこを探してもありませんでしたが、グリーンズではあるコミュニケーションの方法と出会い、話し合いの場で少しずつ試すようになってから、硬直していた関係性にうれしい変化が生まれました。
それがアメリカの心理学者、マーシャル・B・ローゼンバーグ博士が体系づけた、Non Violent Communication(略してNVC)です。
菜央:一夜にして簡単に変わるわけではなくて。今もまさに変わっている最中だけど、学んだ在りかたを実践してみて、人間ってこんなに元気になるんだなっていうのを経験したのね。
NVCで学んだのは「やりかたではなく在りかた」だと菜央さんは言います。いったいどんな学びと実践があるのでしょうか? 今回は、日本でいちばんNVCを知る男・安納献さんに「NVCとは?」を彼の言葉で聞いてみることにしました。
▼続きはこちら
NOと言える関係性
相手の心に「寄り添う」っていうところで、寄り添うこと=全てにYESと言わなければいけない、と思ってしまいがちですが、これはうまくいきません。
日本人は特にその傾向が強いですが、自分を滅して相手に合わせるだけの関係性では長く続かないし、そもそも「私が我慢すれば、全てはうまくいくの」ではなく、「私」も大切にしてあげましょうよ!っていう。
自分にYESを与えていない人は、他人にもYESを与えられません。同じく、自分にNOを与えていない人は、他人にもNOを与えられないのですよね。
お互いの大事にしていることを満たす関係性こそがお互いを「思いやる」心を育み、いい人間関係をつくるコミュニケーションとなる。それこそがNVCの本髄なのです。
三宅洋平マガジン『感覚と科学』24号、25号では、4月に千葉県いすみのパーマカルチャー平和道場にてNVC合宿の夜に行われた、ソーヤー海さん(東京アーバンパーマカルチャー)、冨田貴史さん(冨貴工房)、そして我らが店主、三宅の3人の対談がアップされています。
心の奥のクセを見つけ出し、それすらも慈しんでいく3人のイケメンNVC修行者たちによる対談は必見ですよ!!
三宅洋平マガジン『感覚と科学』をまだ購読されていない方は、こちら ↓
三宅洋平マガジン『感覚と科学』は7月配信分から、ついに商店でのお取り扱いを開始しました! メールにてPDFデータを添付してお届けいたします。
こちらも是非!
NOと言える関係性について、SAIHATE村コミュニティマネージャーの坂井勇貴氏はご自身のFBで以下のようにおっしゃっています。
サイハテ村では「お好きにどうぞ」という強力なワードが文化の軸にありますが、コレは多様性という言葉に置き換えられると、最近になってふと気づいたんです。
というのは、「お好きにどうぞ」を掲げてその中で起こるコトを観察していると、こんな場面に出くわします。『私ってこういう人間なの!お好きにどうぞなんだから受け入れてよ!』って。
コレを聞いてどう思ったでしょう?「多様性を受け入れるって大変、カオスになりそう。」って感じた方が多いんじゃないでしょうか?そうです。その通りでした。それぞれ別の価値観を持った者同士がコミュニティに入ると、お互いの主張をし合ったり、どちらかが自分の主張を失った状態でフラストレーションを感じてしまう。
解決策はあるのだろうか?
そこで、そもそも多様性とはどんなコトなのかを調べると、
“多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。 性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。ーwiki”
と、ありました。コレって簡単に言うと、『似たもん同士のグループがそこら中にいっぱいある。』って状態なわけです。なるほど。多様性は「受け入れる」じゃなくて、「認める」ってコトなんだ。
つまり、あなたの言ってることも分かるし理解はするとしても、受け入れるかは別物だってこと。お好きにどうぞだからこそNoとも言えるって世界観です。
多様性とは、個性や性格は違えど、世界感が似た者同士が集まっているってのはイノベーションを起こしやすいし、関係性が楽しい。それでいてみんな単純に仲良しこよしってわけでもなく、相手の自由を認めた上でなら、批判も反論もある。
これを理解しないで、『幅広く性質の異なるものを尊重して受け入れなさい』とか言うからおかしくなる。通常、相手を認め合えない時点で受け入れる事はできないのだから、それぞれ認めあえて受け入れあえるコミュニティを形成すればいい。
相手の多様性を認め、相手の心に寄り添い、相手のことを思いやる。それと同じぐらい、自分に対しても思いやる。自分らしくいられる社会、多様性を認め合えることのできる社会に向けて、私たちの感覚もシフトチェンジしていきましょう!
すべてにつながるキーワードは、「寄り添う」「思いやる」。
つまり、それは「愛」というものかもしれません。
親子、兄弟、夫婦などの小さな関係性から始まり、仲間内、地域、社会など多数の人と関わる関係性、果ては国を飛び出て、世界の果てまで! 地球人としての共通の言語です。
愛がすべてさ
頭では理解できるんだけど、でもなんだか「愛」と聞くと、なんとなくお尻がこそばゆい感覚に陥っちゃう! はい、わかります。ですが、ここはあえて「愛だろっ、愛」と言っておこうかと。
最後に、2009年出版のスペイン語の小説「La Ultima Respuesta(最後の答え)」71章より、アインシュタインが「愛」について娘に書いた手紙をご紹介したいと思います。
私が相対性理論を提案したとき、
ごく少数の者しか私を理解しなかったが、
私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、
世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。
必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを
社会が受け容れられるほど進歩するまで、
お前にこの手紙を守ってもらいたい。
現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、
ある極めて強力な力がある。
それは他のすべてを含み、かつ支配する力であり、
宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、
しかも私たちによってまだ特定されていない。
この宇宙的な力は「愛」だ。
科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、
彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。
愛は光だ。
それは愛を与え、かつ受け取る者を啓発する。
愛は引力だ。
なぜなら、
ある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。
愛は力だ。
なぜなら、
それは私たちが持つ最善のものを増殖させ、
人類が盲目の身勝手さの中で絶滅するのを許さないからだ。
愛は展開し、開示する。
愛のために私たちは生き、また死ぬ。
愛は神であり、神は愛だ。
この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。
これこそが、私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。
それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを
学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、
私たちが愛を恐れているからだろう。
愛に視認性を与えるため、
私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。
「E=mc²」の代わりに、私たちは次のことを承認する。
※ E=mc²:エネルギー(E)= 質量(m)× 光の速度(c)の2乗
アインシュタインが発表した特殊相対性理論の方程式。
世界を癒すエネルギーは、
光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、
愛には限界がないため、
愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。
私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に
人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで
自分たちを養うのは急を要する。
もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、
もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、
もし私たちがこの世界と
そこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、
愛こそが唯一のその答えだ。
恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと
身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、
愛の爆弾を作る準備はできていない。
しかし、それぞれの個人は自分の中に小さな、
しかし強力な愛の発電機を持っており、
そのエネルギーは解放されるのを待っている。
私たちがこの宇宙的エネルギーを与え、
かつ受け取ることを学ぶとき、
愛しいリーゼル、
私たちは、愛がすべてに打ち勝ち、
愛には何もかもすべてを超越する能力があることを
確信しているだろう。
なぜなら、愛こそが生命の神髄だからだ。
私は自分のハートの中にあるものを
表現できなかったことを深く悔やんでおり、
それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。
恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、
私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに
到達したことを、お前に告げる必要があるのだ。
お前の父 アルベルト・アインシュタイン
▼「La Ultima Respuesta (最後の答え)」共同執筆著者のHP
古くより在りて、そして新しき「愛」。
本当の愛でもって、周りの人間関係を構築していきたいものですね。
By ゆかちん
0コメント